こんにちは、白鳳社寺広報インターンの永野です。
今回は国宝 専修如来堂の桟唐戸(さんからど)の修理工事について紹介していきます。

まず初めに「専修寺」の歴史です。
専修寺は、「真宗高田派の本山」で、全国に約650の末寺を持つ大きなお寺です。元々は、室町時代中期に真慧(しんね)という僧が建て、最初は無量寿院という名前でした。その後、1548年に本家の専修寺(栃木)が戦で焼けたため、伊勢のこの寺が本山となり、名前も専修寺に変わりました。今の境内は、火事で2回焼けたあと3度目の再建でできたものです。境内の中心にある御影堂と如来堂は国宝で、まわりを堀で囲んだ寺内町の形をしています。
次に「如来堂」の歴史です。
御影堂が巨大な空間の建築物であるのに対して、如来堂は質的に高度な建築物とも評されております。
この造営については、『如来堂御建立録』(高木家旧蔵)や修理工事によって発見された墨書銘などの史料などによってその経過を知ることができます。
それら書物によると、発願は享保4年(1719)、着工は翌々6年で、資金難から工事が渋滞し、ようやく元文5年(1740)から地築にかかっています。
しかし、地盤が軟弱なために寛保3年(1743)8月まで満三ヵ年を要しました。
東南隅の礎石にある刻銘は、このとき勘六という老人が人柱に立った記念と言われております。その真偽を確かめる史料は現存しておりませんが、その柱付近の地盤が最も軟弱であったことは、先年のボーリング調査によって確認されております。
上棟は延享元年(1744)3月24日、落成遷仏は寛延元年(1748)7月18日、棟梁は近江八幡の高木但馬、脇棟梁は白塚の長谷川十右衛門と浜田の村田喜太郎と伝えられております。
この如来堂ですが、昭和58年(1983)から七年半の歳月と総工費十四億八千万円をかけて大修理工事が実施され、平成2年(1990)3月に修繕工事が完成しました。

・どんな施工をしているのか??
その1:扉の開け閉めができない。
修理のきっかけは13個所の出入り口の扉、桟唐戸(さんからど)の開け閉めができなくなったからでした。修理は、桟唐戸を取り外して不具合の原因を調べることから始めます。上軸保護のために巻き付けている軸摺(じくずり)金具が脱落し、軸摺金具が木部と擦れることで木部が削り取られていました。削り取られた側に扉が傾いたため、開け閉めができなくなったようです。また軸摺金具が脱落したのは、止釘の頭がすり減ったためでした。今回、止釘の本数を増やし止釘の頭が擦れないように、座堀を深くして金具表面よりも少し沈めました。桟唐戸の蝶番金物を見ると左右で上下にズレています。これも開閉に支障をきたす原因の1つです。長年使い続けているうちに、蝶番の管の小口が擦れ合うことで短くなったのです。今回の修理では、すり減った管と管の間に厚さ3ミリのワッシャーを飼い込みました。
その2:彫刻が割れる!
桟唐戸正面と背景に、透彫の彫刻がはめ込まれています。菊紋の彫刻に打たれた釘が錆びて膨らむことで、彫刻の細い部分が割れたり、欠落していました。専修寺は海が近いこともあって、潮風が建物に取り付けられた鉄金物にダメージを与えます。今回の修理では、カシの木釘を打ち込んで補強します。
その3:板が割れる!
桟唐戸にははめ込まれた鏡板は収縮や変形により割れていました。割れ口はきれいだったので、材料は取り替えずに左右から寄せて割れ口を合わせ、四周にくさびを打ち込んで固定しました。このままだとクサビが見えてしまうので、四分一という化粧材でクサビを隠します。このときも鉄釘は使わず、前述と同じカシの木釘で止めています。

最後に
専修寺如来堂は、江戸時代に建てられた歴史あるお堂で、今も大切に守り続けられている建物です。御影堂と並んで建ち、専修寺の中心となる大切な場所でもあります。建立までには長い年月がかかり、近江八幡の大工・高木氏によって丁寧につくられました。建物は唐様仏殿の形をしており、細かなところまで当時の技術が生かされています。こうした価値が認められ、如来堂は国宝に指定され、現在も文化庁の指導のもとで修理と保存が行われています。如来堂は、昔の人の想いや技を今に伝えてくれる、かけがえのない存在です。今は修理していますが、修理し終わったらぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
202507_専修寺(せんじゆじ)の歴史如来堂の概要 .pdf参考文献(2026年2月8日)
専修寺について|真宗高田派本山 専修寺 写真引用(2026年2月8日)
国宝のご紹介-如来堂|真宗高田派本山 専修寺 写真引用(2026年2月8日)


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